戦士

戦時中の「国家と国民」と、現代の「会社と社員」は似てると思った

自分は常々、「組織」というものは大きさや構成している主体は違えど、そこで繰り広げられる様々な反応というのは、同じように置き換えて見ることができるものだなぁと感じています。例えば、人間で構成する組織としては、家族、地域、会社、サークル、国、民族、全世界等。

今日はその中で、「これって会社で働く人みたい・・・」って思ったことがあったので、メモ。ちなみに、これには当てはまらないような人たちもいると思いますし、全ての人がそうだというわけではありませんのであしからず。

 

全然知らないままでいた日本の歴史、戦争のこと

ここ数年、日本の歴史をきちんと知ろうという気持ちが自分の中で高まっています。受験勉強で選択していた世界史で、歴史を知る面白さを元々知ってはいたものの、日本史については中学の頃に学んだのみ。しかも、明治維新以降、近現代の頃のことについては、授業時間が足りなくてなんとなくさらさら~と済ませていたのか、もしくは全くそこには触れていなかったんじゃないか、というぐらい記憶も知識もありません。

だけれど、自分が幼い頃からなんとなく耳にしてきていた色々な問題、例えば、靖国問題、従軍慰安婦問題、竹島問題、日米安保条約、沖縄の米軍基地問題・・・などなど。単に記号化されたワードとして耳にし、なんだかずっと揉めてるな、と人ごとのように捉えていたこれらのことが、今なお何かのたびに社会の話題として持ちあがっている状況をふと見たときに、「なんでこんなにずっと揉めてるんだろう。」と疑問を感じるとともに、「あ、自分の国のことなのに、これらのこと何も知らないわ。」とバツの悪さのようなものを感じました。

これらの問題の発端やその背景、これまでのことを何も知らないので、それらのことについて自分の見解を持てないし、語れない。「そんなこと、自分には関係ないし、何かできるわけじゃない。政治家の人たちの仕事でしょ。別に私が知る必要もないんじゃない?」ってこれまでの自分は心のどこかでそう思ってたと思います。

だけど、こんな何十年も経って今も消えていないこれらの火が、「別に自分とは関係ないし」と思っているような人たちばかりの日本に残ってしまったらどうなるんだろうと思ったら、ちょっとゾっとしてしまったのです。今まで消えることのなかった火が勝手に消えることはないだろうし、むしろ放置された火はどんどん大きくなって、いつか自分たちはその火に飲まれてしまうんじゃないか・・・?今の日本は安穏だと思っているけど、実は自分は井の中の蛙なんじゃないか?と。そして、今残っている火の多くの火元は、自分の記憶や知識が途絶えている近現代や戦後史にあるのではないか?とハッとしました。

元々、日本人の感性のようなものに興味があったということもありますが、なんとなく、自国の歴史を知らないままでいることにちょっとした気味の悪さを感じたということもあり、日本の歴史をたぐるというようなことを最近はしています。

 

戦中・戦後の生活を今に伝える昭和館

というわけで、今回赴いたのは、東京都千代田区の九段下駅すぐのところにある昭和館。

昭和館

武道館に向かう途中にある田安門より。左側に見える縦縞のある白い建物が昭和館

これまでもこのビルの前を何度も通ったことがあったのに、まさかここが戦争の記録を残し展示している場所だとは全く知りませんでした。かなり大きくて立派なビルなのに。

アーカイブとして残されている写真や記録映像の数は膨大で、戦時中の状況を知るにはうってつけの場所だと興奮するとともに、「ここのことを知っている人ってどれぐらいいるんだろう」、認知度はどれぐらいあるんだろうと気になりました。

毎日たくさんの情報にさらされている現代の生活においても、こういう分野の情報はごっそりと自分から抜けています。今の時代、どんな情報でも勝手に知らぬ間に手に入っているというのは錯覚でした。自分のところにやってくるのは、「ねぇねぇ、見てよ見てよ~!!」とこちらの都合に関係なく、ひっきりなしにはしゃいでいる無邪気な子供のような情報ばかりで、「興味ある者だけがやってくるがよい」と、静かにどーんと鎮座した仙人みたいな情報、こちらから手を伸ばして探してみなければ触れられない世界というのは、あちらからは来てくれないのです。

だとしても、こういう大事な情報をなんでもっとたくさんの人が知ることができるように広報しないんだろう、という不満を感じます。まるであまり多くの人には知られてほしくないかのよう。

 

以下、つづきます。

終わった後に残ったのはやり場のない憤りと虚しさ
状況や時代によって変わってしまう脆い価値
「何に従って生きるのか」に向き合えているか