自己啓発としてのいけばな
「いけばな」もしくは「華道」と聞いて自分の中で思い浮かぶイメージは、
「やってみたいし興味はあるけど、流派とか色々あるし何が違うの?」ということ。
そもそも流派の違いによる表面的な技法の違いみたいなことよりも、「華道」という道の根底にある精神性のようなものや、そこからどういうものが自分の中に生まれるのかということに私は興味があります。なので、お教室としての「生け花」にはあまり興味を抱かないのかも。
だけど、今日は華道を20年以上も続けているという友人のワークショップへ。というのも、彼女がいけばなを通して伝えたいこと、その想いの根っこにある今の社会に対する課題意識にとても共感したから。
彼女の言葉を借りてお伝えすると、それは
- グローバルスタンダードに付随する没個性化
- 現代資本主義による、文化と暮らしの分離
- 「教える」教育から「考える」教育へ
「敷居が高い」「堅苦しそう」「フラワーアレンジメントと何が違うの?」などのイメージから、以前と比べると華道を行う人たちが減ってきているらしい。だけど、彼女は単に華道人口を増やしたいということではなく、また芸道を極めることが目的なのでもない。花や空間などと向き合いながら自分を見つめることで、日々の暮らしや社会でのその人の価値観や行動が変わるきっかけにしたい、いけばなはある意味その“手段”なのだと。
花と自分と向き合うひととき
3つのお題から1つを選んで、そのイメージから自由に表現する。いわゆる華道の作法やルールは気にしない。うまい下手、センスの良し悪しもない、花材の扱いも自由(折っても曲げても分解してもOK)。
きっと「華道」をきちんとやりたい人にとっては、「えっ?!」という感じなのだろうけれど、ただ自分の手の中にある花をよく観て、この子にしかない、いいところはどんなところだろう、どういう表情があるのだろうと眺めることで見えてきたことがある。
普段、こんなに花をきちんと眺めることってないなぁ
へぇ、こんな風になっているんだ って心で呟く。
今回の花材はドラセナ・コンシンネ、菜の花、ベロニカの3種。菜の花以外の2つは見たことはあったけれど、名前は知らなかった。菜の花は、知ってもいるし見たこともある。だけど、花びらがどんなかたちなのか、どういう風に並んでついているのか、葉っぱのかたち、生え方、こんな風になっていたんだって、初めて知った。いつもは、既に頭の中にあるぼやっとしたイメージを、「菜の花」というテンプレートで使いまわしている感じ。
こんな風に普段の生活の中には、見ているようで観ていないものがたくさんあるんだろうな。いや、そういうものばかりかもしれないな。って思った。
「見る」ではなく、「観る」。
そういうものが、日本の伝統文化や「道」の世界には通じてあると思う。そしてその先にある「観心」。観ることによって表れてくる、自分の感情や言葉、心。ルーティン化された日常の中ではそういうものも、気にも止められずにかき消されていっているし、そのことにさえ気づいていなかったなと気づかされました。
壁を破る
ドラシナ・コンシンネの葉っぱを、斜めにバサッと切ってみた。
「葉っぱとはこういうかたちのもの」「植物を切ってしまうのはかわいそう」
そういう気持ちが初めはあったと思います。だけど、「果たしてそうなの?」と自分に問いかけました。
確かに、“あるがまま”を楽しむこと愛することも、とても素敵なことだし大事なことだと思う。だけどそれと同時に、そこでは終わらない、まだ見ぬ魅力や可能性もあるんじゃないかと考えることも、想像力を持つ人間だからできることなんじゃないかとも思うのです。
目に見えているものの先にあるもの。
「こうして、こうして、ああしてみたら、きっとこうなるんじゃないか?」
もしかしたら、思っていたのとは違う結果になるかもしれない。だけど、そこにもちょっと手を伸ばしてみる。
何かにチャレンジをする前の心境に似た感覚でした。行くか行くまいか。決断を迫られる。日常生活での大きな決断事はしづらくても、こういうかたちでそのプチシミュレーションを味わった感じでした。
結果的に自分としても、「この子、こんな風にも魅せることができるんだ!」と新たな一面を引き出すことができて嬉しかった。壁を破る、プチ成功体験になりました笑。
瞬間 ・ 変化 ・ 隙間
今回の3つのお題が、「瞬間」「変化」「隙間」。
一緒に参加したメンバーの作品をみんなで観賞した後、彼女がこの3つのお題について語ってくれました。
これらは、なんとなく選ばれたお題だったのではなく、いけばなを意味する言葉でした。いけばなを観賞するだけではきっとわからなかったであろうその真意を、実際に花を観察して生けてみた私たちにはすっと心に落ちてきました。
瞬間 絵画や彫刻といった他の芸術作品とは異なり、花は時間の経過とともに姿を変えていきます。その時、その瞬間の姿を受け入れ、その時の最大限の魅力を捉えること
変化 時とともに状態が変化することはもちろん、生ける人における変化も意味していました。それは、固定概念から外れたことをやってみるということ。そして花や枝は、切ったり折ったり、一度手を入れてしまったら、二度と同じ状態には戻りません。「行く」と覚悟を決めて進んだ結果を受け入れるしかない。だから、結果がどうであろうとおのずとそこからまた次の一手を進めることとなり、それは進まなかったときとは必ず違った状態を導いてくれる。
隙間 日本の美とは「引き算の美」と言われます。私が英国に美術留学をしていたとき、何も色をのせていない空白のある絵を担当教員に見せたときの言葉を今でも覚えています。「何もしていないところがあるということは、未完成ということよ」。その時、日本人である自分との感覚の違いを認識しました。何もしていないからこそ、「在る」ところが際立つのに。ムダなもの、必要のないものは削ぎ落す。たとえ、「在る」ことが「自然」な状態だとしても、引き立たせたいものの邪魔になるものを削ることで、より鮮明に見えてくるものがあるのだから。枝は落とされ、ただ一本だけ波打ちなが伸びるか細い一輪挿し。だけどその姿に、私は生きている!という力強さを感じるのは、私だけではないと思います。
同じものでもみんな違う
今回参加したのは全部で6人。みんな同じ花材と道具を使っているのに、できあがった作品は本当に様々。柔らかい雰囲気の作品、のびやかな作品、力強く立ち上がる作品、自分の不安な心情や希望を表した作品。
「自己と向き合う」のテーマ通り、まさに、それぞれの人たちの内面がそこに現れていました。日常生活の中で、こんな感じで自由に自分を解放して表す機会というものがあまりにもないなと、また普段の生活を振り返ってみて思ったり。
子供のころは自分全開!だったのに、いつの間にか大人という面の皮の中に閉じ込められてしまったそれぞれの自分。
こうしてそれぞれの人たちの内面の違いがかたちとして目に見えることで、また自分を知り、他の人たちのことも知ることができたと思います。