前回(終わりの時を決めてからの変化)からの続きです。
思考錯誤で方法を変えることもある
留学から帰ってきて、早10年が経ちました。その間、会社員を経験し、今から1年半前、その会社員を辞めました。なぜ、あれほど「自分的にはない」と思っていた会社員となったのか。それは、ずっと自分の関心の対象である「社会」というものを見つめるとき、この国の多くの人たちが見ているもの、感じていることを、自分でも体験することが大事だと感じたからです。
英国での創作活動では、自分の中にグツグツしていた色んな膿を吐き出すことができました。作品を創ることによって見えてきた自分、根底にある願望。そのことは自分にとってとても大きな収穫ではありましたが、この先もずっと、単に自分の排泄物としての作品を創り続けることがしたいのかというとそうではなく、やはり、元々感じていた社会の違和感というものに向き合いながら生きていくことが、自分が向かいたい方向だと改めて思ったのです。そういうわけで、外野からあぁだこうだ言うのではなく、自分もきちんと、他の人たちと同じ目線でものごとを見てみようと思い、会社員になりました。
そしてその時も、今回のテーマにあるように、「会社員としての最後の時」を考え、それまでにどういうことをしたいか、どういう力をつけていたいか、それはいつなのかを決めました。そうすると面白いことに、周りの人に「こういうことがしたい」と言ったわけでもないのに、自分が掲げていた時期までにそれら全てを経験することができ、またしても、「お~、これがいわゆる引き寄せの法則ってことか??」と、自分の実感として得ることができました。
正直なところ、これまでの自分の道の進め方がよかったのかと自分に問うてみたら、「う~ん、どうだろう」という感じです笑。同級生の友人たちが、きちんとあの時にレールに乗って、大企業に就職し、それなりの役職について高収入を得て、幸せな家庭を築いている姿を見ると、自分の不器用さ頑固さにトホホな気分になります笑。「自分は○○です」と、職業をはっきり言えない負い目のようなものもあったり。
だけれど、自分の最終目標を考えてみた時、もしそちらの道に進んでいたとしても、結局今の道に来ていたような気もします。その人たちにはその道がよかったかもしれないけれど、自分にとっては、自分が行きたいところに繋がっていると思えないので。実際前職では、女性社員の中ではいい役職をもらい、お給料も今の3~4倍ぐらいはありましたが、辞めてしまいました。なんともやっかいなゴールを選んでしまいました。だけれど、ここまでのことも、自分の人生という大きなくくりで見てみた時には、全て通るべき大事な期間や経験だったと思うのです。
向かってる方向は変わってない
実はこれ、作品を創っているときと似たような感覚です。一番初めにコンセプトやテーマを考えます。自分がこの作品でどういうことを表現したいのか、何をメッセージとして伝えたいのか等、その時の自分自身の心の中をほじくり返します。そして、それを表現するために適した素材やかたち、配置、醸しだす雰囲気・・・。ある程度のイメージ図をその段階で描きます。ですが、実際に手を動かして思考錯誤することで、「あ、これ、思っていたほどよくないな」とか、「ここをこうしてみたらどうだろう?」と、最初のイメージ図とは違う素材、かたちに変容していくのが常です。ただ一点、「その作品のコンセプトを、より満足いく表現にできるかどうか」という基準はブラさず、方法や表現は変われど、すべてはそこに向かっています。そして、最後は一気に仕上げていく。この過程はひたすら完成を目指して黙々と一心不乱になっていて、すごく集中して気持ちいい時。
会社員の頃は、自分が興味のあるたくさんのものに触手を広げて、たくさんの人たちや世界に触れてきました。それは、コンセプトやテーマを生みだすときのブレストやリサーチの期間のようです(ちょっと長すぎたかも)。いろんなものに触れながら、自分の中にある想いを掘り出す過程。そして今は、そのコンセプトに向かって、素材を色々触りながら完成のイメージ図を練っているところ。そして、練りながらあとは一気に最後まで創り上げていきたいところ。人生80年としたら、残り半分の人生は一心不乱になりたいです。
なので、今回の人生について今のところ「う~ん、どうだろう」と思うことはあっても、後悔はありません。全部自分で決めてきたことなので、「もしかしたら、想定していたことと違うかも」という過程が出てくることも受け入れる覚悟で進めてきたからです。もしそうなったら、その時に、「じゃあ次、どうしたらいいか」を考えればいい。トライ&エラーの繰り返しです。
ある意味、実験のようだとも言えます。
テンプレートはなくてもいい
もし、プラモデルやお店で売られるような完璧な製品を創ること、誰かや社会によって既に見本がつくられた「人生キット」をきれいに組み立てることを目指すのであれば、それはそれでよいと思います。そういうものも世の中には必要かもしれません。
ただ、自分はそれじゃつまらないなと思ったので、取説を捨ててしまっただけです。私の周りにはそういう友人たちが多いのも、よかったです。みんな、試行錯誤しながらも、自分自身を生きている様子が傍から見ても楽しそうです。既にある道を歩くのではなく、自分の通ったところに道を創っている人たち。
さいごに
というわけで、「終わりの時を考える」ことによって、目には見えない道をその時々に応じて、自分自身でひいてきたと感じています。あるいは、「あなたが行くのはこっちだよ~」と、要所要所で、どこからともなくやってきた飛び石が自分の目の前に敷かれていくようでもあります。
そのため、逆に終わりが見えていないことが不安になることがあります。「どこに向かって道をひいたらいいのか」「永遠にこの状況が続くのか」という不安。なので、何かを始めるときにはその「終わりの時」を考えた方が、そのことを有意義に楽しんで取り組めるなぁと思っています。
完成させる作品は、誰の目にも止まらない不格好なものかもしれませんが、せめて地球にとってのがん細胞ではなくビフィズス菌のようなものとなって、「こんな面白い作品を創れた~!ありがとう~!」という達成感と感謝の気持ちをもって、この世を去りたいです。
完
①終わりの時を考えるということ
②終わりの時を決めてからの変化
③自分の人生という作品
main photo : Atelier by il grillo