この状況をどうしたら変えられるんだろう?
「悪いな、よくないな」と思いながらも行動を変えられないのは、倫理観が欠けているとか、意志が弱いとかということではなく、私たち人間が社会というベルトコンベヤーのような“システム”の上に乗せられた存在だからだと思う。しかも、「よくない」と思いながらもし続けることで、そのベルトコンベヤーの速度を自分たちで加速させているし、そのことにも無自覚であるから。
高速であればあるほど、そこから飛び降りるのはコワイ。
自分だけが、そこから飛び降りるのもコワイ。みんなそう。
だから、みんなで「いっせーのせっ」で、「悪いと思っている」ことを止めることができたらいいのにな。「私たち、もうそこにいるの、やめましたから。」って、今まで自分の思考や行動をコントロールしてきた「生きてくためには仕方ない・・・」と思わせてしまう枠組みにGood bye できたら、どんな世の中になるんだろう。
そのためには、何が必要だろう?
銀行券以外のものでも、価値を交換し、人々が生活していくことができるシステム?それぞれの人たちが、自分が持っている資源から自ら価値を生みだし、それを使えたらいいな。そのためには、どうしたらいい?きっと同じようなことを感じて、思って、行動している人たちがいるよね。でも、それが大きな仕組みになっていないのはなんで?それぞれが個々の運動のままで存在していて、ひとつに固まってないから?もし、それらがひとつになったらどれだけの大きな力になるんだろう。
目的と手段が入れ替わっていると思うひとつの例
ちなみに、お金が悪だとか、お金儲けがダメというようには私は思っていないです。お金は社会にとっての血液みたいなもので、それがあることで人やモノや情報など、あちらからこちらへ運ばれたり循環します。そのおかげで、それぞれの存在が生かされます。
でもあくまで、そのための手段。
なのに、いつの間にか手段であったはずのお金を手に入れることが目的になり、手段を生みだした側のはずの人間が、そのお金によって思考や動きを支配されてしまっている状況は、なんかおかしくない?という違和感を感じるということです。
体全体に行き渡って流れ続けるべきはずなのに、血液があるところだけに滞って、全く流れていないところがある。そんな体は健康じゃないよね、という生物としての感覚的な違和感です。
どうしたら、そういう血液のドロドロ、滞りをなくせるのかなぁって考えたら、血液は血液だけで存在して、またそれが流れているのではなく、適度な水分をきちんととるとか、栄養のバランスのとれた生活をするとか、血液であるお金をきちんと循環させる身体=社会の仕組みや、それを支える価値観にも目を向けることも大事だよなぁと思うのです。
というわけで、「自分のやりたいこととは違うけど、お給料のためにこの仕事をする」ということを、まずは去年やめました。