自分が日々過ごす上で、なんとなく心掛けているというか、これをしているとなんだかいいぞと感じていることがあります。それが、「終わりの時を考える」ということです。
終わりの時ってどんな時?
それはその言葉どおり、何かを始める時に対しての終わりの時です。例えば一年の始まりに対しての一年の終わり。新しい仕事を始める時に対してのその仕事を辞める時。そして、この人生の始まりに対しての、最期の時。
一番初めに設定したのが、この「人生の最期の時」でした。大学生の頃にそれを設定し、10数年経って、そのことが自分のこれまでの様々な選択、行動の根っこに常に存在しているということに気づいてきました。
社会に対しての苛立ちと、虚無感・厭世観に包まれていた学生時代
「人生の最期の時」なんていうことを考えてしまったのは、このような学生だったからです笑。では、なぜそうなってしまっていたのか。それは、それまで自分がなんとなく感じてきていた社会の違和感というものから、もうどうしたって逃れられないんじゃないかという境地に陥ってしまったからです。
このサイトをつくろうと思った理由でも触れましたが、幼いころから自分は、目の前にある表面上のハッピーな世界と、その陰に広がっている様々な社会問題のギャップを処理できずにいました。周りの人たちがみんな、笑った顔の仮面をかぶっているようで気持ちが悪かった。足元は泥沼で、そこにはその泥の中でもがく人もいるのに、仮面をかぶった人たちにはそれが見えない。見えないし見ようともしないで、その泥沼の表面でピチャピチャと、もがく人たちに泥を飛ばしながら楽し気に踊っているような不気味さ。自分たちも少しずつ少しずつ、そこに沈んでいっているのに。
大学では、社会科学部という学部に入学しました。Aboutのページにも書いたように、高校の授業の時に、「何か、この世界にあるものたちは繋がっているっぽい」と感じていたということと、その繋がっている総体としての地球という環境に蔓延している、ずっと感じていた違和感や問題を、どうにかしたいという気持ちがありました。なので、何かひとつの特定の分野ではなく、社会全体を捉えられるようなことができたらいいなと思い、そういう学部ばかりを受験しました。
結局そういう思いで選んでいたにも関わらず、授業に出てもとりあえずノートをとっておく、眠けりゃ寝る、気が乗らないときは図書館でビデオを見る、なあまり真面目な生徒ではなかったですし、どんな話を聞いていたのかも記憶にありません。お母さん、お父さん、ごめんなさい・・・。
ただ、よくも悪くも広く浅く、政治・経済・国際政治という大枠的なものから、憲法・保険・マーケティング・広告などのより実生活に関わるもの、宇宙自然科学・情報科学などの科学分野、文学・映像などの芸術分野、等と人間の営みとして生まれるものを総合的にかいつまんだことで、それぞれのことが1対1ではなく、多対多として、それはもう複雑に絡まり合っているんだということが、実際にガツンと自分の中に入ってきたことが一番の学びでした。そしてそのことが、当時の自分には大きな絶望感をもたらしました。
こんなにグチャグチャに、無数の糸が絡まり合った毛糸玉のようなカオスな世界じゃ、何かひとつの問題を解決しようとしたところで、別の糸がひっぱられて、さらにこんがらがってしまうだけ。小手先のことではどうにもならない。ここまで来てしまったら、もうどうにもならないんじゃないか・・。網の目のように張り巡らされた蜘蛛の巣に捕えられ、ただじたばたと手足を動かしもがいている自分の姿が浮かびました。そしてしかも、あの泥沼は自分たち人間がその上で踊り続けることで、さらにベチャベチャグチャグチャにしてしまっているんだ・・・。なんて人間は愚かなんだ・・・、と。
そしてそれに拍車をかけるように、当時の私は自分を見失い、その焦りや苛立ちを、笑いの仮面をつけた人たちに上塗りしていました。
学生というまだ閉じた世界にいた自分には、テレビや映画、雑誌などで目にする、今でいう「リア充」的なキラキラした人たちが「目指すべき姿」であり、そうでなければ「つまらない人間」という烙印を押されるかのような恐怖から、必至で世間の流れにしがみついて、自分は「リア充」であると思いこませようとしていました。
はい、本当の「リア充」ではなく、思いこませようとしていただけです。表向きには、一緒に遊んだり、出かけたりする友人もいましたし、好きな彼氏もいたし、バイトもサークルもやって、おしゃれな街で買い物したりお茶したり、傍から“画像として”見たら、その姿はいわゆる「リア充」的な学生生活だったかもしれません。だけれど、どれだけ楽しく周りの人たちと笑って騒いでいても、どこか一歩ひいて冷めている自分がいたし、心の中は、全くリアルに充実なんてしていませんでした。
だって、あんなに気味悪がり忌み嫌っていた笑いの仮面を、自分自身にもつけてしまったのだから。表面と内面が分裂していました。
泥沼を見てみぬふりして、泥をはね飛ばしている人間になってしまっていることに、自分で気づいているから余計にたちが悪いです。笑いの仮面をつけて踊り浮かれている人たちを、「なんておめでたい人たちなんだ。無自覚に自分たちの手で、こんなに社会を狂わせているのに」と、心の中で蔑み、また、自分たちの人生を心の底から謳歌しているような姿が、リアルに充実していない自分には妬ましくもありました。自分も彼らのように、仮面をかぶっていることも、足許に泥沼が広がっていることにも気づかず、踊り浮かれられたら、どれだけ幸せだろうと、こういう自分自身の性質に嫌気がさすこともしばしば。そして、オモテヅラと心が一致していないから、自分が定まらない。何者にもなり切れていないような焦り・・・。
そんな勝手にドロドロに陥った自分が行きついたのが、「いっそのこと、人間なんていなくなってしまえばいいのに」という境地。戦争や格差・貧困に差別、環境破壊に環境汚染。他にも挙げればいくらでもありますが、結局それらは全部自分たち人間がつくりだしているもの。こんなに地球上の営みをグチャグチャにしてしまって、人間は地球にとってのがん細胞だと思っていました。かといって、当時その数がそれまでのピークになるぐらいの自殺者数を出していた時であっても、自分で死ぬということは考えられませんでした。だったら、仙人のように、どこか世間から離れたところに行こうか、などと考えていました。
この時が、「自分の死」というものを初めて考えた時でした。
どういう死に方をしたいかを考えた
死に方と言っても、自殺の仕方ではありません。どうせ自分で死ねないのなら、どういう死に方ができたら、この人生を生きられてよかったと思えるのだろうかという方向からです。
その時にふと、ひとりの女の子のことを思い出しました。おそらく小学校の時だったと思いますが、その女の子のことをテレビで知った時、その彼女の短くも全てをやり終えての旅立ちだと思わせる生涯に、幼いながらにも心を打たれました。
彼女の名前は坪田愛華さん。1991年12月25日、学校の課題として環境問題について調査した結果を、『地球の秘密』というタイトルで、彼女が得意だった漫画で完成させました。そしてその数時間後の深夜、突如頭痛におそわれ、27日の朝、脳内出血により12歳という若さでこの世を去りました。それまでは健康そのもので急逝の兆候もなかったという突然の死。
彼女の言葉は本当に純粋で、自分と同じぐらいの年齢の子の言葉とは思えないぐらい、核心をつくような、それでいて慈愛に溢れたものでした。以下、その一部をご紹介します。
- 子供は親を鏡に育つよね。人間は、地球を鏡にして生きなくっちゃぁ。
- 『昨日』は大人のしたこと。『明日』は子供のすること。
- 落ちていく枯葉だって美しい。肥料にもなるし・・。木はそのことを知っているのよ
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その後、彼女の書いたこの本は英語、フランス語、アラビア語等、11ヵ国語に翻訳され世界に広がり、国連での賞も受賞されています。
当時彼女と同じぐらいの年齢だった自分にも、「この子は、このことを伝えるためにこの世に生まれてきたみたい。それが終わったから、また元の世界に還っていったんだな。」と思わせてくれ、こういう死に方があるんだと教わりました。テレビや新聞では、事故や病気や殺人で、不本意に苦しんで亡くなっていく人たちの話ばかりです。
その彼女のことを思いだした時、「自分も彼女のように、この世で自分が為すべきことをやり切って死にたい。それも、病気や事故などではなく、生物としての自然な死で。」と、ふと思いました。
その時から、“自分の人生やりきった!”と、清々しく笑顔で息をひきとる=「笑って大往生」を最終目標と決めたのです。
次回②に続きます。
①終わりの時を考えるということ
②終わりの時を決めてからの変化
③自分の人生という作品
※今回ちょっと調べてみたら、朝日俊彦さんというお医者様さんと斎藤茂太さんという精神科のお医者様が、同名の『笑って大往生』という本をそれぞれ出版されていました。もしかしたら、どこかでそのキーワードが自分の脳裏にインプットされていたのかもです笑。
main photo : Fuegos