自分の声を聴くことが自分を活かす道しるべ

前回(このサイトをつくろうと思った理由)からの続きです。

自分の存在価値はわからなくても

わたしたちは、日々生きている中で、何かしら自分にとっての好き・嫌い、快・不快、嬉しい・腹立たしいなどの色んなサインを、自分の内側からの声として受け取っています。そこに、自分をどう活かせるかに気づくヒントがあるように思います。

植物や動物の生態を見ていて感動することは、彼らは自分にとって都合のいいように(いい意味で)自分の体や生存の方法を変化させていることです。

例えば、栄養の乏しい土地で生き残るために、虫から栄養をとる食虫植物。虫を葉で挟み込むもの、捕虫袋に落とし込むもの、粘液で捕えるものがいます。そして、確実に虫を捉えるために、お目当ての虫が好きな匂いを発したり、魅惑的な柄をしていたり。逃げられないように滑りやすい体にしたり、逆毛が生えていたり。「虫を食べて生き残る」という目的は同じでも、それぞれが自分独自の方法を生みだしています。

もう、見ているだけでドキドキします。(参照元:A Tropical Garden

また、自分の子孫をより広い範囲や、育つのに適した土地に届けるための、種子散布の方法にもたくさんのバリエーションがあります。風散布(風にのって飛びやすいように羽や翼がついている:例タンポポ)、水流散布(水に浮きやすかったり、水をはじいたり。長期間浮遊できるようになっていたり:例ココヤシ)、動物散布(動物に付着しやすいようにトゲや粘液がついてたり、動物に食べられフンになるまで発芽しなかったり:例オナモミ、ヒサカキ)、機械的散布(果実の成熟し裂開する力で種が飛ぶ:例ホウセンカ)など、知るほどに「ほぉ~~!!」です。

このようにそれぞれが自分の生き残りのために変容していった結果として、多種多様な風貌や生き様を発展させている姿には、尊敬の念すら感じてしまいます。

つまり何が言いたいかというと笑、「幸せに生きたい」という目的は同じでも、その生き方は様々であってよくて、むしろ人それぞれ違うのが自然なんじゃないの?ということです。「世間ではこうしないと将来ヤバイって言ってるし」を判断基準するのではなく、自分の中にひそかに聴こえる「そうは言っても、本当は自分、こっちが好きなんだよね」という声をヒントに自分の選択をすることによって、人とは違う自分だけのものが確立されるし、そこに価値を見出す人に喜んでもらうこともできるのではないかと。

確かに、「でもそんなこと言ったって、それじゃ生活できない」という気持ち、私にもありました笑。なので、しばらくはずっと会社員をしていました。最終的には、それをこれ以上続けることは自分にとっては不本意だなと思ったので、私は会社員を辞めてしまいましたが、働きながらでも少しずつ自分の「好き」な気持ちにそった行動をすることはできると思います。

最近、友人が言っていた「自分のために、自分の好きなことをやり続けたら、自分にしかできないことになる。」という言葉がとても印象的でした。

自分をちゃんと生きることが周りのためにもなる

一本のサクラの木には、250種類以上の生物による生態系ができているそうです。この木によって生かされている生物もいるだろうし、ある生物によってこの木が生かされていることもあるかもしれません。また、そこにいる生物同士の間にもきっと共存関係があるんだと思います。もしここに、この木を食べることしかしない一種類の生物だけが大量に集まってきていたら。。。そのうちこの木はなくなってしまうでしょう。そしていずれ、この木を頼りに生きていたこの生物たちも全滅です。

もしここに、「この木も食べるけど、代わりに歌を歌います」という生物がいたら。その歌声に誘われて他の生物たちが集まってくるかもしれません。そしてその生物たちも「代わりに〇〇します」と、それぞれの得意なことや好きなことで他の生物たちに何かを提供したら。。。そんな感じで、その木や、森や、生物が生きる世界は出来上がっているんじゃないかなと。そう考えると、同じことしかしない生物たちだけではそもそも「社会」は成り立ちません。

私は、社会や世界というものは、大きなパズルあるいは精密機械のようなものだと思っています。以前は、「会社や社会の歯車のひとつになるなんて」みたいな感情が自分のどこかにあったように思いますが、それは、どれだけ大きなものであっても、それを動かしているのはひとつひとつの小さな存在であるということや、そこに存在しているだけで、良いことも悪いことも何かしらの影響を自分がそこで与えてしまうんだという自分の存在についてわかっていなかったからです。見方を変えれば、どんな存在でも、このパズルや精密機械の中で自分の役割を果たさなければ、それは完成しないし機能しないとも思えます。

なので、

「〇〇になれば、幸せになれる」
「〇〇があれば、幸せになれる」

と、みんなが同じものを求めて同じものになろうとしている様は、私には不自然に見えます。みんなが同じピース・部品になろうとしている感じです。

本来ならみんなそれぞれ、自分だけのアンテナを持って生まれてきているはずなのに、どこかから飛んできている

「ワタシハ、〇〇ニナリタイ」
「ワタシハ、〇〇ガホシイ」
「〇〇シナケレバ、シアワセニナレナイ」

という妨害電波を受信してしまっているみたいです。それが本当に、自分の本望であるのなら、それはそれでいいと思います。そこを担ってくれる存在というのも必要です。

だけど悲しいことに、「その方がいいらしいから」と、自分の感覚をおざなりにして自分を何かの型に入れてしまうと、「あの人が羨ましい」とか「あの人だけズルイ」とか、「自分はこんなに我慢しているのに」というような、嫉妬や被害者意識みたいなものが生まれてしまいます。人や周りから奪ったり傷つけることも仕方ない、という思考にも導かれてしまいます。

もしそれぞれの人が、「これだ!」と自分自身が思わず興奮してしまうような自分の存在を全うできたらどうだろう。そのように想像すると、「ここは、どうぞ私に任せてください」という自尊心を持てたり、「どうかここは、よろしくお願いします」と、お互いにそれぞれの存在を尊重し合えたり、活かし合えるんじゃないかな、と思います。自分自身が満たされている人、つまり、自分自身に真摯に生きている人は他人の幸せを妬ましく思うとか、足をひっぱってやろう、傷つけてやろうなんて思わないと思うので、一人ひとりの人たちが自分自身を活かし生きることが、なにより大切なことだと思っています。

とはいえ、その妨害電波にかき消されがちな自分だけに届いている電波を、ちゃんと受け取っている人たちが最近は増えてきているようにも感じます。そしてそういう人たちが増えることで、“みんながみんなで幸せになれる世の中”に、少しずつでも近づいていってたらいいなと思います。

 

ということでだいぶ長くなってしまいましたが、そういうわけで、「へぇ!」とか「わぁ♪」とか「う~ん・・」という驚きや感動、怒りや悲しみなどを感じながら、この世界の未知のことを開拓していく、ということが、「時間も忘れて没頭してしまうぐらい楽しいよ~」と自分のアンテナでずっと受信し続けていたので、まずはこのサイトを始めてみました。

ちなみに、自分は浅く広くな性質なので笑、新しく開いた知に関する詳しい解説については、既に縦に深く掘り下げてくださっている各分野のプロの方たちのサ イトや書籍などをご紹介し、ここではそれらを横に並べてみて見えてきたことや自分に生まれた気づきや驚き、感情の変化などをメインに書いていこうと思いま す。自分を活かし、他の人も活かすの実践として。

そして、自分で感じた感情や、そこで生まれた思考、自分の心と頭で判断するということを忘れないためにも、ここに残していこうと思います。それは、自分で考えなくなること、自分の感情が鈍感になること、おかしいと感じることに目をつぶり続けることによって、生きづらさや狂いのようなものを感じる今の社会を創り上げ、存続させてしまっているように思うからです。

この世の中のこと・ものは、必ず何かと繋がっているので、何もしなければ何も変わらないけれど、何かを変えれば、何かが変わります。ご自身がそういう存在であるということをたくさんの人たちに気づいてほしいです。

同じように感じる方たちにとって、何かそれぞれの小さな一歩を踏み出すきっかけになれれば幸いです。