このサイトをつくろうと思った理由

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みんながみんなで幸せになれる価値観、価値基準ってないのかな?

そう考えた先に今自分にできること。それが、「自分の中に生まれた声をかき消さないで大事にすること」だったからです。

幼い頃からなんとなく、この世の中は何かがおかしいなぁと感じていました。

ぱっと見は、みんな笑っているし、楽しそうだし、不自由も不便もない生活をしています。だけど、ちょっと脇を見ると、苦しんでいたり、悲しんでいたりする人もいます。もちろん、人間生きていれば「楽あれば苦もあるさ」ですが、そういう一個人の間で起こる浮き沈みではなく、片側の幸・楽を支えるもう一方の悲・苦という図式。誰かの苦しみの土台の上に立つ、他の誰かの幸せ。自分が笑えるために、誰かが泣いてくれているのかもしれない。

自分は聖人でもないですし、正義とか悪という言葉はあまり好きではありません。なので、誰かが正しくて、誰かが間違っていると言うつもりもありません。自分自身も、誰かの犠牲や支えによって生かされている人間だと思っています。

だけど、生まれた家庭が違うだけで、生まれた性別が違うだけで、生まれた国が違うだけで、生まれた時が違うだけで、「それは仕方ないね」と当たり前のようにそれらは受け入れなければいけないものなのかなと。もしかしたら自分がそこにいたかもしれない。生まれた時から、逃れられない苦しみを抱え続けることを負わされた生、を授かることがまかり通る世界というのは嫌だなと思います。

自分の周りに目を向けてみれば、様々な「社会問題」と言われる問題の山。

貧困、差別、格差、紛争、自殺、鬱、少年犯罪、虐待、DV、殺人、汚職、不正、偽装、環境破壊、食物汚染、絶滅危惧種、移民、失業、少子高齢化、領土問題、財政破綻・・・

テレビや新聞、インターネットを見れば、空気のように当たり前のように目の前を流れて行くこれらのもの。存在することが当たり前になってしまっているけど、そもそも当たり前なのだろうか?いやいや、こういうことが当たり前なんだとマヒしたくないです。

互いに何かの原因であったり、何かの結果だったり、複雑に絡み合っているこれらのもの。なので、ひとつひとつの問題解決に着手しようとすると、その原因になっている他の問題に直面するし、そこまでは手に負えないと目の前の問題だけに対処すると、悲しくもそれがまた別のところで他の歪みを生む結果になったりする。

そこに触れれば触れるほど、木の枝のようにそこから分岐して、問題もどんどん細分化・増殖していく感じ。

なので、裏を返せば、枝葉を見てそこをいじるのではなく、その根元にあるものが何かを捉えてそこに向き合うことで一気に全てがガラっと変わることはないのだろうかと思うのです。

根本へとたどれば一点にたどり着く。ガラっと反転した世界とは?

目の前にある問題への対処、社会のシステムを変えること。それも大事なことだと思います。だけどそれと同時に、それらを創るのも、元々の問題をつくっているのもそもそも人間なのだから、そこをきちんと見つめることも根本的に大事なことだと感じます。

私たち人間が考え、判断し、行動する根本にある、価値観・価値基準、追い求める願望とは。

それはきっと、「幸せになりたい。幸せに生きたい」ただシンプルにみんなそういうことだと思います。ただそこに、意識的であれ無意識的であれ、「たとえ他の人、周りがどうであっても、自分だけは」という但し書きが付いてしまっているがゆえに、一部のところでは幸せだけれど、他方はそうではない、という歪みが生まれ、その歪みがまた別の歪みを生み、さらにさらに・・・という風に連鎖的・複合的に様々な問題を生みだしているように感じます。

みんながみんなで幸せになれるってどういうことだろう?

物心ついた頃から考えてきていたけれどその答えはずっとわかりませんでした。だけれどある時ふと、自分がずっと感動してやまない自然界の仕組みを思ったとき、「あ、これなんじゃないか?!」と何かがひらめきました。

それぞれの存在が、自分を活かしその存在を全うすることによって、他の存在も生かし、全体がむだなくムリなく廻り機能できている状態。その中の何かひとつでも、それがどれだけ小さい存在だったとしても、欠けたり機能不全を起こしたら、なにかしら全体に不具合が起きてしまう自然や宇宙の循環システムのようなもの。

そう、それは「組織」とか「システム」と呼ばれるもの全てに当てはまります。時計やパソコンなどの機械であったり、人間や動物の体もそう。そして、家庭や職場、国家という人間が集まる組織や、生態系や食物連鎖などの地球上のシステムも。個々のものが組み合わさってできているものすべて。

まさに、大きな宇宙の仕組みが、大なり小なり様々なレベルで繰り広げられています。

そう思うと、「自分さえよければ」は結果的に巡り巡って自分のもとに、“大きな仕組み”の歪みとして還ってくるなとわかります。「誰も見ていなくても、お天道様は見ている」というのも、あながち間違っていないとも私は思っています。

そして時計の中の小さな部品にもきちんとそれぞれの役割があるように、自分は自分の存在を全うすることが、周りや社会のためになるのではないのかなと思うのです。

だけど、そこでぶつかる壁。

それは、自分の存在価値がわからないということ。

 

なんだか長くなってしまったので、次回に続きます。。。

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